昭和43年7月23日  月例祭における御理解
                                                 秋田健一郎


折角、信心をさせて頂くのでございますから、えー、神様にお喜び頂けれる信心を頂いて、えー、神様の御信任、御信用を、いよいよ、厚く頂いて、ね、身に徳を受けて、心配は無いという日々、ね、不安は無いという生活に入らせて頂かなければならんと。
そこで、神様に一番喜んで頂く信心というのは、どういう信心をいうのだろう。
神恩報謝ということを申しますね。神恩報謝の生活。
神恩報謝の生活に間違い無いのでございますけれども、神恩報謝の生活とは、なら、どういうようなことだろうか。
果たして、私どもの言う神恩報謝の生活が、神様にお喜び頂けるような、えー、生活になっておるだろうか。
今日は、ここのところを、(?)ですから、よく聞いて下さい。ね。
私どもは、信心生活さして貰っておる。信心を頂いておる。ね。自分な、毎日、お参りもしよる。お供えも人並み以上に。それで、御用も出来よる。だから、なるほど、神恩報謝の生活が出来ておるつもりだけれども、本当に神様に喜んで頂く、神恩報謝の生活というものが出来ておるだろうか。
お供えを沢山すれば、神様が喜びなさる。毎日毎日、日参り夜参りすりゃ、神様が喜びなさる。そう言や、今の教団の中にでも、随分あります。なら、この教会にでも、ね、朝、毎朝、ここ、お広前一杯、朝、早よから参ってみえる。
昼のご祈念の時には、あの暑い中に、やはり、ここ一杯参ってみえる。ね。しかも、あの暑い中に。もう、それこそ、汗みずくになって、えー、合楽へ合楽へと、皆が集まって来る。
なるほど、そのー、神恩報謝の信心生活、その信心させて頂いておる有難さが、まー、あのような形になって現れて来る。ね。
だから、果たして、んなら、神様にお喜び頂けれる生活になっておるかどうかと。ね。
ところが、なかなか、いかんのですね。
お互い、私は、先ず、信心を頂いておるということがですね、しみじみ有り難い。先ず、ここから本当の信心が始まる。信心を頂いておる。しかも、金光教の信心を頂いておる。いや、しかも、その中に、合楽に御神縁を頂いておるということが、なんという有り難いことであろうかというのである。ね。
そこで、そのー、そういう有り難たさというものを、皆さんが感じられる。
今日も、お昼、二、三人、昼の、朝のご祈念の後に残られました。ね。野口さんや、朝永さんや,光橋先生が残っとりました。ほうして、いろいろお話さして頂きながら、お話聞いたことでございますけれども、「本当に、あの、合楽、合楽にぼうけちしもうちから、今は、もう、主人も笑い話のごたる。主人も一緒に、あーして、お参りが出来るようになりましたけれども、あまりに、合楽、いや、その当時は椛目でしたね。椛目、椛目と言うて参るもんじゃけん。あーた、主人が風の悪かった。一時ばっか。」。
そういうようにですね、例えば、あの、こりゃあ、あのー、女性の方だけじゃありません。先生が、あんまり良か男じゃけん、(笑い)もう、親先生にぼうけていきよるごたる。(笑い)
けれども、ここでは不思議なことにはね、女ごだけじゃなかちゅうこと。ね。ここ辺に並んでござる(?)とは皆ぼうけてござるとよ。(笑い)
福岡辺から,2へんも3べんも参って来なさるけん、てえげな(?)。ね。
目を瞑っても親先生の顔がチラチラするごたる。ね。と言うような思い、勢いでお参りさして頂きましたという話があったんですけれども、そういうような、例えば、ほんなら、あー、信心、神様をお慕い申し上げる、止むに止まれん心が、お広間、お広前へと集まって来るという信心が出来ておるから、神恩報謝の生活が、いや、神様に喜んで頂く、そりゃ、喜ばれんことは無い。
「毎日、そげん参って来んでん、良かじゃんの。」ち、言ったら、「いいや、お参りさせて頂きたい。」と言う。その、ね、それこそ、「この暑いのに、参って来んでも、良いじゃないか。」と、例えば、言われてもです、ね、やはり、「この夏期修行の間だけは、一日も欠かしちゃならん」と言うようにして、一生懸命の思いで参ってみえる。その思いをです、神様が喜びなさらんはずがない。
“雨の降るのにおじゃるなというに、濡れておじゃれば、なお,可愛い”と言う、私は、念を、神様の上にも燃えて来る。お互いの心の上にも燃えて来る。その、燃えた者同士の、いわば、集まりですから、それが、ね、いよいよ、熱い、熱いものになって来ることは、勿論のこと。
だから、そういう意味合いでの、信心が、お互いね、ほとんど合楽でお日参り組の方達ならば、まず、体験しておることだと。ね。
しかし、それが、私は、神様に本当にお喜び頂けれる神恩報謝の生活の現われとは思われない。ね。
神へのお礼、、神様への一番お喜び下さるのは、神様へのお礼の信心生活を、神様は一番喜ばれるが、ね、果たして、お互いお願いをする、お取次ぎを頂いておかげを頂いた。そりゃ、誰だってね、おかげを頂きます、ね、誰だって。それはおかげと思います。
ですから、お礼をもする。いよいよ、信心ちゃ有り難いなあと思うようになる。ね。そこで、私は思うのですね。今晩のように、それこそ、蒸し風呂の中に入っておる様な中で、皆さんがお祭りを奉仕される。先生方も汗みずくである。ね。お参りをしている皆さんも一生懸命。ね。もう、本当に大変な修行なんですけれどもね、この暑い中に。
だから、このこの暑い中に、ね、暑い中に、ね、有り難いというような心が湧いて来るところまでが、信心なんです。ね。
私は、来年はどうでも、だいたい、この御造営の時にですね、あの当時の百万円をかければ、全館の冷房が出来る。ところが、私がちょっと人間心を使うた。他所あたりの教会あたりでは、それこそ、まあ、冷暖房があちらこちら、どの部屋にでも入っております。ね。それに、お広前までもそれというのは、気がねな気がした。あっちこっちに。
だから、「それだけはが、あー、まー、止めときなさい。」。私が止めさした。ね。
現在、ちょっと、やはり、二百万円位は、うちばじゃ、かかるらしい。しかも、それは、このお広前だけで、そうなんです。それでも、来年は一つ、どうでも、おかげ頂いてから、
( ?)なっとしてから、ね、この、涼しう、お祭りが拝まれるようなおかげを頂きたいという風に思います。ね。
 ですから、そういうおかげの頂けれるまでにです。神様がそういうおかげをお許し下さることの、ま、までにです、「暑い。暑い。」と言うておったんではではお許しは頂けんと思うです。
 「ああ、暑か。暑か。」。それは昔話にはなる。「本当に、初めの頃はね、もう、それこそ、あの重箱んごつある中で、一緒に、ひしめき合いながら、暑い暑い汗を流して、しかも、皆、男の方達は背広を着込んで、女の方達は良いですね。こげん辺からこう切れとっとば着てから、(笑い)ミニスカートはいとんなさるけんで、この頃は涼しかですもんね。
これも、男性のところの方がどうして、行儀がうなっとる。本当。ね。ですから、それでもですね、それでも、やはり、あのー、背中に汗が、ダラダラ感じる。ね。
 暑いような汗を、背中に感じさせて頂きながらです、その中に、ね、暑いけれども、また有り難いという気持ちが拓けて来る。
私どもは、朝、あー、3時半に控えに出て参ります。4時からご奉仕をする。そして、昼の12時まで。ね。10時間近くの間をジーッと座らせて。ほら、もう、目の前が真っ暗になる。
昨日、おとついなんかは、12時に下がる時に、もう、とにかく、そのー、お届けが、乱れて、乱れて仕様がない。その日のお届け帳を見ると分る。「こげんきつかったわいな。」と思う位に乱れておる。
あちらの控えに、ルーム、ルームクーラーが入っとりますから、あー、もう、冷たい様な風が入って来る。その前に、こう、手をかけて、そこを、冷たい風をこれに入れた途端に、目が真っくーろなってから、そのまま倒れた。ね。
と、いうようにですね、そういう、例えば、一生懸命の修行をさせて頂いておるけれどもです、ね、やはり、有り難い。ね。背中に汗をダラダラ感じるけれども、それがまた有り難い。ね。
そこには、一歩下がれば、そこに、言わば、台湾と北海道が一緒にあるように、ね、もう、それこそ、何か着らなければ寒いごたる冷えた部屋が用意してある。
ここでも、もう、おかげを頂いて、えー、この、洋間の応接室と、それから、私の居室がクーラーが入っとる。
昨日から、暑いから、おじいちゃんとおばあちゃんとこへ、部屋に行きました。したら、おじいちゃん、未だ、練炭が入っとりますもん。そしたら、練炭火鉢。練炭火鉢じゃから、そりゃ、もう、ちょっと触っただけでん、熱いごたるでしょう。その上にチャーンと座ってから、「暑か。暑か。」ち、言いよんなさる。(笑う)
(?)。私は、「年寄りちゃ、あげん、暑なかもんじゃろうか。」と、思いよった。もう、どげん、「ルームクーラーうを入れてやろう。」と言うても、「扇風機をかけなさい。」と言うても、かけんのです。
けれども、今年の暑さは、やっぱり、ちったあ、こたえたごたる。それでも、未だ、(笑い)ストーブを前に、ストーブちゅうか、(笑い)その練炭火鉢を前にです、大きなつ(?)が入っておる。ね。そして、「暑い。暑い。」ち。
それは、修行のつもりだったかも知れませんですけれどもね、「これじゃ、暑いはずじゃ。」て。この、あなた、この小さい部屋にね、この火鉢が一つ入っとるだけでも冬は温いと言う位なのに、あんた、こんな暑かつに、練炭火鉢の入っとるもんじゃき、そら、暑かはずさい」ち。「もう、明日から、どげんこげんち、止めなさい」。
そして、「もう、今日から、(笑い)私の部屋を、朝から冷やしとくから、あちらへ行きなさい。」。だから、昨日からあちらへ行っております。
で、私は、こちらの控えの方で過ごす。お客さんどん、お客さんがある時には、応接間の方へという風にですね。皆んな、その、お客さんにみえて頂いても、あー、暑い思いをせんでも済む。年寄りがおるなら、年寄りも涼しい思いで過ごして頂けれる。私も涼しい思いが。ただ、ここで修行させて頂いておる時には暑いけれども、けれども有り難いのであるというおかげを頂かせて頂いておるから、ね、「いつも三月、春の頃」というおかげを受けられるのである。
そこで、例えば、皆さんでもです、この暑い中に、ここでは団扇一つ使う人がありません。扇子一枚使う人がありません。
使う人がありませんて、使いよったらおごらるるもんね。(笑い)ジーッと眺めらるるなら、やっぱ、持てんもんね。
私しゃ、「使いなさんな。」と言うたことはないですよ。(笑い)ジーッと見るとは見るばってん、こうやって。(笑い)本当。
ところがね、扇子どん使いよったらね、団扇どん使いよりか、やはり、汗は出るけれども、こうした方が有り難い。うん、有り難くなれれる。ね、本気で一汗流すことを、はまって、今日はここに出て来てる人ばっかりなんです。
見て下さい。皆んな、こう、チャッと背広を着こんで、ネクタイ締めてますよ。
伊達や酔狂じゃない。お洒落だからじゃない。
やはり、修行さして頂きよる。しかも、その中にです、こういう良い子が沢山出来て来たんだから、もう、ボチボチ来年あたりは、ルームクーラーの一つも、ここに、冷房さして頂こうというような風に、私の心が動きよる。ね。
ですから、もう、もう一つ、皆さんが頑張らして頂いてです、この暑い中に、この一夏を本気で、ね、ここで一汗流さして頂こうと。
ここは久富のすわり場、ここは朝のご祈念場と。決まった所には、もう、チャッと膝の汗の跡が付く位にですね、一つ、おかげを頂きたい。
あー、昼のご祈念の時には、また、皆んな、濡れた雑巾で拭きよります。
たった20分しかご祈念しませんけども、もう、一生懸命ですから、もう、膝の下が濡れてる、という位に、熱烈な、いわゆるご祈念をさして頂いておる。ね。だから、もう、汗を流すのは、もう、これが最後になるかも知れん。
そんためにです、ただ、ジーッとお世話になり来るのじゃなくてです、自分達も、その暑い中に有り難いものを一遍開かせて頂いておいて、そこに、言わば、涼しい、冷たいといった様なおかげも頂きたい。寒い時には暖かいという様なおかげも頂きたい。ね。
「もう、暑かけんでルームクーラーを入れます。」、「寒かけんで、暖房しよう。」という。それではおかげにならん。金光様のご信心は。
寒いなら寒い、暑いなら暑い中に、ね、今日、私が言う、神様が一番喜んで頂く信心生活とは、「神様、暑うございます。」と。「神様、凍える程に、冷とうございます。」けれども、「けれども、有難うございます。」と言う信心なんです。ね。
今も、借金、山程に持っとります。毎日、毎日、もう、それこそ、借金に責め苛まれておりますけれども、ね、それを一々修行と思うて、断らせて頂いておりますとです、ね、しみじみ、金銭の有難さが分らして貰います。
今まで、本当に、湯水の様に使うてきたことが、本当に分らして貰います。
今限り、このことによって、改まらして頂きます。金の有り難さが分りました。と。例えば、そういう、最近、責め苛まれる様な場合であっても、有り難いという気持ちをひらかして頂く。そこから、ね、一生不自由せんでも済む様なおかげも、また、頂かれるというもの。ね。
今日は、皆さん、ほんのここのところだけですけどね、一つ、どうぞ、頂いて、ね。
本当に神様に喜んで頂く信心生活とは、日参り・夜参りすること。お供えをどんどんすること。おかげを頂いたら、もう、それには、本当に思い切ったお供えをさして貰うこと。   ね。これならば、だーれでも出来る。
そうでしょう。だから、月次祭にこれだけのお供えが集まって来るとです。ね。
それは、ただし、ね、お礼の万分の一の印なんです。これでは。
神様は、こんなことじゃ、満足しなさらん。ね。神様が心から喜んで下さるということはです、神様が造って下さるものの中には、無駄なものが有ろうはずが無い。ね。
それを、私どもは要らんものの様に思うたり、無駄なものの様に思うたり、「ああ、どうして、こげん暑かじゃろうか。」、「どうして、こう寒い思いをしなければならんじゃろうか。」と、そこに嘆いたり、暑がったり、寒がったりしとるというのは、如何にお参りが出来ておっても、未だ、神様に喜んで頂く神恩報謝の生活が出来ていないということなんだ。
現在もって、お互い、難儀の、難儀の中にあってです、「難儀です。それだから、暑うございます。けれども、背中に暑い様な汗、汗を感じます。けれども、けれども、有り難い。」。
汗やら涙やら分らん。有り難いものがこみ上げて来る。ね。
そういう、例えの中に、お礼が申し上げられる神恩報謝の生活であってこそです、ね、私は、本当の意味においての神恩報謝の生活ということが言えるのではなかろうかと、こう思うのでございます。
ただ、お願いをしておかげを頂いた。本当に、信心が止められん。こういう有り難いおかげを頂いた。ね。盲が開いた。ちんばが立った。医者に見離された何々の癌が助かった。
それは、誰だって有り難いです、ね。だから、信心が止められんというのではなくて、こういう中にあっても、有難くならして頂けれるということが、有り難いのである。
そういう信心生活を、私は、神恩報謝の、本当の意味においての神恩報謝の生活であると、こう思う。
神様が下さるものの中に無駄なものが無い。
それを、無駄なものが有ると思うたり、そこには、ね、半分は神恩報謝の生活が出来とるけれども、半分は、ね、不平不足の生活である。
その、不平不足の生活を言いよった、その中にです、「神愛がある。神様の願いがある。神様の思いがある。」と分らして頂いて、そのことにお礼が言えれる生活こそ神恩報謝の生活と言うことが言えるのじゃないか。
もう、いよいよ、明日も峠になりました。ね。あと、もう十日余りで、夏期修行五十日間を、もう終わります。
夏休みに入りましたから、ね、学生諸君も皆、アー、参りますから、昼のご祈念には、そういう若い方達あわせて、一杯です。ね。
しかも、ほんなら、こういう風に汗水流してです、夏期修行をさして頂くのは、もう来年は、ひょっとしたら出来ないかも知れない。ね。
お互いが、この暑いお広前の中で、「本当に、暑いばってん、有難かもんの。」という心持を頂かして頂いて、来年の、言わば、ね、冷房完備になったお広前で、お祭りを仕えさせて貰う、拝まさせて貰える様なおかげを頂くために、私は、どうぞ、この暑い中に、「暑いけれども有り難い。」をですね、一つ、流れる汗の中に、ね、有り難涙がこぼれる程の有り難さを、一つ味おうて頂きたい。
そして、そのことだけではない。一事が万事に難儀と思うておったそのことの中に、神愛を分らして頂く信心。そこに、神恩に対するところの報謝の生活。それが、私は、本当の意味でのお礼、お礼の生活、神様へのお礼の生活、ね。
そういう生活がです、ね、ジッと家にしてはおられないというのが、朝参りになり、夜参りになり、様々な御用になり、それが様々な御用、お供えということになって来たとき、はじめて、そのお参りが活きて来るのであり、御用が、お供えが、活きて来るわけでございます。
「こげな見事な物ば頂いたけんで、そのお返し」ち言うてん、それはたいしたことはなかじゃんの。ね。ですから、現在、ここの暑い中にですね、「暑いけれども、有り難い。」という気持ちをひらかして頂くということをもってです、ね、神恩報謝の生活だと分らして頂く。そういうおかげを頂いて頂きたいと思うのです。
どうぞ、ね、もう、いよいよ十日余りになりましたのでございますから、家族をあげて、移り代わり出来んなら、ね、あと十日で良いから、一つ、あの熱気溢れる様なご祈念に参加さして貰うて、ね。あれが、もう今年の、じゃない、今後、合楽教会のですね、最後の、ああいう様なご祈念になるやら分らん。ね。来年、おかげ頂きゃ、もう、これは涼しいお広前でしかご祈念が出来んということになるのです。ね。
そういう意味あいにおいてでも一つ、本気で信心修行に取り組ませて頂いて、ね、先日から、二、三日前のご理解の中にね、遊びよる、火で。ね。全ての中に遊びが無かったら、もう、つう一杯。しかも、朝、お参りしよる。そげん、昼までは参らん。ね。ご理解はゆっくり。もう家で早よ仕事した方が良か。
こういう、ね、ギリギリの信心ではない。駄目。遊びがなからにゃ。信心には遊びが。ね。「親先生がおい出るところには、もう、どこにでん、どげん忙しかとて、もうついて行かにゃおられない。」といった様な遊びが必要なんです。
マア、遊びと言うと言葉が悪いですけれども、ね、本当に、あのー、もう信心道楽と言われる位のです、言わば、遊び、ね。
自動車の、あのー、私は、運転しきらんばってん、遊びというのが有るでしょうが、ハンドルに。 ね。
遊びが無からにゃ、危ない。遊びが無い。信心に遊びが無いと危険だと仰る。ね。
そういう意味合いにおいて、ね、教会をあげての修行、教会の動きに、私は、便乗させて貰うということは、自分の都合はあるけれども、そこを遊びの信心と思うてです、ただ、我が都合の良か信心ばっかりでは無くてです、ただ、自分の合点のいく信心だけでは無くてです、合点がいかんでも、それを遊びと思うて、信心のゆとりと思うて、信心をさせて頂くという様な信心こそがですね、望まれる。
いわば、合楽の現在の信心の状態は、そういうことを望まれておるように感じられます。ね。
遊びのある信心はね、その中にです、「暑いけれども、有り難い。」を頂かして貰える信心を頂きたいと思うのでございます。    
どうぞ